刻限

最近,死にたいという願望以上に,自分が現世を失うつまり本当に死ぬという実践的な問題に対する恐怖の方が頻繁に出てきていて,いよいよあと何日生きられるかわからない。根拠は全く測り知れぬが明日足指を棚に掛けてそのままぱったり倒れて窒息するかもしれない,歩いている間に突然車にぶつかるかもしれない,電波が入水の方角に赴かせてくるかもしれない,あるいは自分自身で首を宙に浮かばせるかもしれない——かくていよいよかがりのみあたらない広い宇宙に知覚を失われたまま永劫に閉じ込められるかもしれない。

何も知覚しえないことは一つの快楽かもしれないが,そこから抜け出せて知覚を取り戻す,あるいは別の勝手な仕様のものに還元されるという保証がないままに溶け込むほどの覚悟と呼ぶべきところのものは全く肚に決まっていない。やり残したこともまだ残ってる。今の勉強を続けて(終わった)研究を呼び起こしたいし,トラックもまだまだジャンルを作りきれていないしそもそも何も作ってすらいない,あるいは何も寄与できていない,自分の持っている音で人類に描像を見せたい,延いてはレヴィ=ストロースラカンから世界を俯瞰する作業を行いたい,これは新しい関心だ,しかし有機的につながっており極めて有意である……もっと展開できるかもしれないが,それは僕が死ねない理由を挙げているだけに過ぎない。僕は理不尽に死ぬ。どうやって回収すれば良いのだろうと思うと途方に暮れて仕方がない。

とにかく肝要なのは,200日だか4000日だか,いな20000日かもしれない,その無慈悲な刻限までにどこまで突き進められるか,その限界を探ること,関心であって限界を超えるものを俯瞰する飛び道具の探し方,限界を広げるための思考のジャンプの仕方,その検討である。これは誰かのための人生訓ではないしそんなお人好しな作業をする意図は全く持っていない。唯,愚鈍にエゴのために行う限りのことである。